noteに引っ越すことにした
こういうしみったれた文を書くにあたって、最近ははてなブログよりもnoteの方が良いっぽい潮流があるので、noteに引っ越すことにした
プラットフォームの流行り廃りはどうしてもある。 (はてなブログは廃れているというわけではないけど)
mixiで日記を書くのが大好きだった僕はみんながTwitterに移行してもmixiとTwitterを連携したりなどして粘っていたけど、大きな流れには逆らえなかった。
この経験から、一つのプラットフォームに居続けることは難しいので、 プラットフォームにこだわらずに気分次第で移り続けよう、という考え方に変わった。
どっかしらに自分の全ての日記を集約するようなシステムも欲しかったりするけど、まあめんどいのでいっか。という程度の気持ち。 寂しい〜〜
というわけで、今後はこちらへ↓
28歳にして歯列矯正を始めた動機と感想
28歳にして歯列矯正を始めた。
歯列矯正は一般的に思春期ぐらいで終わらせる人が大半っぽいのでアラサーにして始める人はまあそれなりに少数派だろう。
周りの人に矯正を始めたことを言うと「どうして今?」と言われる。 今日はその答え(動機)および実際始めてみた感想をまとめようと思う。
ちなみに、動機として考えていたことから実際やってみての感想は大きく違った。
動機 - どうして矯正を始めたのか?
理由は2つ。 「どうでもよくなった」から、そして「生活に飽きた」からだ。
どうでもよくなったから
歯並びに大きなコンプレックスはない。 矯正を「始める理由ができた」というよりは「始めない理由がなくなった」と言った方がより正しい。
小さい頃から何度か両親に「歯の矯正をした方がいい」と言われてきた。 でも当時の僕にとって仮に数ヶ月でも歯に異物を付けることは大ごとで、とても許容できなかった。 この心境については以前ブログでも触れた。
今は時間的にも矯正器具を付けることについても どうでもよくなった。 結局2年ぐらい付けていなきゃいけないらしいけどなんかぼーっとしていればすぐ経つだろうと思っている。
矯正器具を付けることについても、見た目については誰も自分のことを見ているわけじゃないから問題ないし、不自由さについても多少あってもそもそもが完璧じゃないし大したことないかな、と思えるようになった。
生活に飽きたから
とにかく最近は生活に飽きを感じていた。
どうしたら退屈を脱出できるか考えていて、以下の要素が有用そうだと考えた。
習慣を変える
自分自身を変える
やったことないことをやる
取り返しのつかないことをする
歯列矯正は上記で言うと「自分自身を変える」「やったことのないこと」そして「取り返しのつかないこと」の3つに当てはまったのでかなり効果がありそうだと思ったからだ。 取り返しが付かないジャンルでは、その影響力と取り返すことの難しさ的には整形とかタトゥーとかの方が強いんだろうけど、メリットがあんまりない上にデメリットが多いので断念。
感想 - 実際始めてみてどうだったか?
経緯
まず経緯を書く。 今年1月に初めて矯正歯科に行った。 その場でまずざっくりとした診断と見積もりなどをもらった。
セカンドオピニオン的にあと2箇所ぐらいで診てもらいたいな〜とぼーっとしてたら半年以上経っていたいたので、とにかく始めなきゃと最初に行ったところで始めることにした。 実際に器具を入れたのが9月の始めだ。
矯正器具は最初からフル装備をするわけではなく徐々に追加していく形式だ。
人生の希望を失った1週間
器具を入れて最初の一週間はとにかく絶望だった。
最初は左右上下の奥歯に器具を設置した。 矯正器具を付ける前に聞いていた懸念としては「見た目的に目立つ」「器具に食べ物が挟まる」「歯が浮くことで痛む」ぐらいなものだ。
本当に、この程度だと思っていた自分の浅ましさと、何も教えてくれなかった周囲の人間を恨みたい。
食事中に頬の内側を噛むことが他の何を差し置いても圧倒的苦痛で生きるのが嫌になるほどの絶望感だ!!!!
とにかく頬の内側を噛んでしまう。
4〜5回に1回ぐらいは噛む。ゆっく〜〜り気を付けて食べて「あ、このペースで噛んでれば大丈夫かな…?」と思った頃に思いっきり噛む。
食事には常に痛みが伴う。
痛みが伴えば喜びはゼロだ。どれほどおいしい食べ物も、どんだけ好きな食べ物も、痛みが入ったら無価値。痛みの上では挽回できない。食事の楽しみは無となる。
まるで食べてはいけないよう教育されている気分だった。
でもお腹は空くしおいしいものは食べたくなるから食べるんだけど噛んで痛いから落ち込む、これを繰り返した。
まるで罰を受けている気分だったけど何がいけないかはわからないし誰に謝りゃいいかもわからない、どうすりゃいいかわからない、ただひたすら罰を受け続けた。
もうこの絶望感。
これがこのブログに残しておきたかったことのすべてだ。
その後から現在まで
1ヶ月に一度の診察と共に器具を拡張していき、この前やっとフル装備となった。
最初の1週間を乗り越えた後の話は退屈すぎてあまり書くことがない。
徐々に噛むことが減っていった。同時に、食事に喜びが戻った。
見た目が気になったり器具に食べ物が詰まったりはするが、もうどうでもよくなりつつある。
こうやって、どうでもよくないことを生活に取り込んで、どうでもよくなるという形で克服することで成長…というより、成長のような気分を味わい続けられるといいなと思う。
まとめ
始めの1週間はとにかく辛いものだった。
固形物が食べられないけどちゃんと食べないと身体壊すだろうしで難しかった。
そんな時、 完全食 である COMP を見つけた。
完全食とは、それだけ食べていれば完璧な栄養が得られるというものだ。
よく思い描くこういう食品などは、食事そのものではなく、サプリメントやプロテインなど、不足しがちな栄養素を補ったり、ダイエットなど特定の目的のもと補助として利用するものと思う。
しかし、完全食はこれ自体が完全な食事なのだ。
ゲームとか研究とか夢中で作業していると食事の時間が惜しくて、カップ麺とか食べる人が多いと思う。
けど、カップ麺じゃなくてもっと良い食事ないの?ってことで開発された〜なんて話を読んだ気がする。
矯正中の絶望感野中これは矯正中にこそ良いと思って注文したけど届く頃には絶望状態を脱していた。
けど、まあおすすめだよ。
圧倒的に飽きたから世界を変える
飽きた。圧倒的に飽きた。
何に飽きたって、全部だ。
正確に言うと、飽きていた。
飽きていたことに気付いた。
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気付けばまたブログを書かずに日が空いた。
日が空けば空くほどとっておきのブログを書きたくなるけど、空けば空くほど何も書けない。
これはいけない。駄作を気にしないために、駄作で駄作を上塗りする方針で生きる。
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気付き
母が東京に来て、一緒に遊んだ。
昼は目白のとびっきりおいしいと評判のケーキ屋さんに連れて行き、
ケーキを持ち帰って家で一緒に食べるなどした。
上京した大学生の頃からずいぶん変わったもんだなあと思った。
そのケーキ屋さんに初めて来たのは、池袋に住む前、大学生の頃だった。
とびっきりおいしいケーキを買いたいと思って調べて、
当時住んでいた下高井戸から自転車で来たのだった。
コンビニアイスさえ買うのを躊躇する学生だったから、
ケーキ屋でケーキを買うことなんてほとんどなかったと思う。
やたらと緊張しながら注文したことを覚えている。
今となっては何に緊張したのかもわからない。
そんな頃からずいぶん変わったものだと思った。
別に成長したとは思わない。ただ経験済みの体験が増えただけだ。
母と別れた夜、僕には予定があった。
下北沢の古本屋でのフォークシンガーのライブを観るというなんとも素敵な予定だ。
店内はそう広くないからマイクも使わない生演奏だ。
古本の匂いを嗅ぎながらフォークソングを聴けるなんて素晴らしい体験だと思う。
でも僕には既視感があった。
それもそのはず、このイベントに来るのは今回で3回目だったからだ。
古本の匂いも、狭い店内に響く生歌の迫力も、友達のような距離感で話されるMCも全て経験済みのことだった。
会場に向かう道中で気付いた。
ああそうか、飽きているのだと気付いた。
ライブのことだけではない。近頃の生活全般に飽きているのだと気付いた。
最近の自分の気持ちの答えを見つけたみたいで不思議な納得感があった。
そうか僕は飽きていたんだ。ハイスペでもモテモテでもないけど、大きな不幸も不遇もない。
強いて言えば友達がいないぐらいでけっこう恵まれているはずなのになんとなく気分が上がらないのは、全てに飽きたからだと気付いた。
非合理な飽き
"飽き"は残酷でどうしようもない。
誰も何も変わっていないのに、変わっていないからこそ退屈してしまう。
どうして飽きるなんて感情があるんだろうか。
安寧の場所を見つけてそこに永住できた方が幸せだろう。
安全に生きようと思ってこの身体を操作しているのに、心はわかってくれない。
安定した生活を手に入れたのに、心は喜んでくれない。
なんてものわかりの悪い心だ。
安定して繰り返しの生活の方が絶対安全で幸せでしょう?
心を目の前に連れ出して話ができるなら説得したい。
しかしそんなことを言ってもしょうがない。
心はどうしようもなく退屈を感じてしまう。
僕らは(少なくとも僕は)飽きてしまう生き物なんだ。
飽きからの脱出
ちなみに、件のライブはめちゃくちゃ良かった。
始まる前は3回目だから飽きちゃったなという気分だったのに、こんなに良い気分にさせてくれるなんて、やっぱりプロのミュージシャンはすごいと思った。
その能力に感動し、嫉妬さえする。
そのミュージシャンは、東京に住んで、関西に住んで、また東京に戻って来たと言っていたかな。
歌の中には東京の思い出がいくつも出てきた。
「自分を変えるためには、付き合う人か、仕事か、住む場所を変えなければならない」と聞いたことがある。
決意を新たにするとか、人とか関わらない新しい習慣を始めても変わるのは無理で、上記に挙げたものらを変えなきゃダメだってことらしい。
学生にはけっこう酷だなと思うけど、幸い僕はもう社会人だ。
付き合う人も、仕事も、住む場所も自分で選ぶことができる。
圧倒的に変化したい。圧倒的に変化するには何ができるだろうか。
海外とか住めたら最強だなあ。日本でも東京以外のどこか、九州とか北海道ぐらいまで離れて暮らしてみたい。
そんなことを考えながら、東京の思い出が散りばめられた歌を聞いていたら、東京のことがめちゃめちゃ愛おしく感じてきた。
東京を離れるかもしれないと思うと、東京の思い出が全部素晴らしいものに感じられて来たし、だからこそ離れなければならないと思った。
この圧倒的な飽きを脱出するためには、東京を脱出しなくてはならない。
世界を変える
件のライブから1ヶ月は経ったけど何も動かないままだ。
飽き性と面倒くさがりというのはかなり最悪の組み合わせだなと思う。
そんなだからなんとなく憂鬱になって、なんとなく『嫌われる勇気』を読んだ。
少し前に話題になったアドラー心理学の本だ。知っている人にとっては今更かよって感じだろう。
でもこれ本当に素晴らしかった。
本の中で紹介されているアドラー心理学は、人間は自分の世界の全てを「主観」で把握しているとし、この主観との付き合い方について熱く語っている。
「あなたは、たった今この瞬間から幸せになれる」と言うほどだ。
というか、アドラー心理学はともかくとして、生活に退屈した自分にとって、哲学はかなりぴったりだと気付いた。
アドラーに言われるまでもなく、僕らは主観を通してしか世界を把握することができない。すなわち、主観を変えることは世界を変えることだ。
一冊の本に、世界を変える可能性が秘められている。
付き合う人も変えず、引っ越しもせず、転職もせずに世界を変える方法があったとは。
"飽き"の解消のためにこんな方法があったのかと驚いた。
自由を感じる
心理学&哲学最強。
読みやすい本を探してみようと思う。
とりあえず今はアドラー心理学が楽しい。
アドラー心理学は「現実がどういうものか?」と原因究明をするための概念ではなく、
「どうやったら幸せに過ごせるか?」を目的に徹底的に幸福を追求しているのが好きだ。
使うための心理学とのことだ。読んでいて楽しい。
何より、主観を変える心理学は世界を変える可能性がある。
世界を変える可能性は自由を感じられる。
何はなくとも自分の退屈の原因が圧倒的な"飽き"だと気付いて、
自分には圧倒的な自由があると感じられることで、
かなりの救いになるのだと思った。
そんなこと言ってるとまた何もしなくなってしまうけど、せめて必死にこの自由の感覚だけは忘れずに生活したい。
実際の脱出はどうしようかな。
福岡とかいいよね。九州は新しい。京都もいいな。森見登美彦を読み込んで予習したい。
怠け者すぎて全然動き出せる気配がないけど、まあ必要になったらやるでしょ、と楽観視している。
ここまでとにかく書き殴った。
最後に、件のアーティストが、僕が前に住んでいた下高井戸に関するnoteを書いていた。良かったので共有する。
- 作者: 岸見一郎,古賀史健
- 出版社/メーカー: ダイヤモンド社
- 発売日: 2013/12/13
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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裏切りの人間性と、奇人的自己紹介による自由の獲得
『素敵なダイナマイトスキャンダル』という映画を観てきた。
「母親がダイナマイトで心中した」という自己紹介
これは、小学校1年生のときに実の母が不倫相手である自分の友人とダイナマイトで心中をしたという経験を持つ末井昭の自伝の映画化となる。
小学校1年生のときに実の母が不倫相手である自分の友人とダイナマイトで心中をしたという経験...
やばすぎる。
作中でも、主人公である末井昭がその事実を知らない登場人物に母親のことを尋ねられ「いや、俺の母親、ダイナマイトで心中したんスよ」と答えるシーンが度々登場する。
母親がダイナマイトで心中するなんて、不憫極まりない。
悲しい出来事だと思うし、自分はその立場になりたくない。
世の中からもそんな出来事はなくなって欲しいと願う。
それはそれ、これはこれとして、だ。
「母親がダイナマイトで心中したんスよ」という自己紹介、ちょっと良いな。
この自己紹介があれば、この先のコミュニケーションがどれだけ奇人でも許される。
キャラという束縛と、裏切りの人間性
よほど気が大きい人間でない限り、一度くらいは自分のキャラ、立場によって悩んだことがあるはずだ。
「こんなこと言いたいけど、自分のキャラ的に言えない...」みたいなことだ。
真面目キャラで通っていれば急に下ネタとか言えないし、おちゃらけたキャラなら面白いことを言わなければいけないプレッシャーを感じたこともあるだろう。
気にしなければいいだけだけど、気になるもんは気になる。
僕自身はその見た目からか、真面目に見られがちだ。
確かに、"一般的な規範を守る"という意味では真面目だけど、特に勉強に関しては確実に不真面目だった。
夏休みが明けても夏休みの宿題は手をつけてすらいなかったし、大学では授業に行かず家で寝ていて単位を落としまくった。
そんな人間性でありながら、初対面の人には真面目に勉強するタイプだと思われた。思われて、何度も裏切ってきた。
勝手な先入観を裏切ることが悪いことだとは全く思わない。
だけど、その勝手な先入観を抱かれる度にちょっとだけドキドキして変な感じがする。
この人、僕のこと真面目な人間だと思ってるけど、違うんだよな。
でもわざわざ「僕は不真面目な人間です!」って言うのもおかしいし自意識過剰だ。
とすると、何か偶然のタイミングでこの人は気づくのだろう。それはどんなタイミングで、この人はその時どんなことを思うんだろう。
そんなことを考えていてモヤモヤする。
いまいち共感できない人は、髪をバッサリ切って出社(登校)した日の気持ちを思い出してほしい。
誰も何も思わないとわかっていてもちょっとドキドキする。
「あ、髪切ったんだね」と言われるまで、「この人は気付いたのか?」「なんて思ったんだ?」と考えてしまう。
とは言え自分から「ほら、髪切ったんですよ!どうですか?」と言うのも図々しい。
裏切りの人間性を抱える気持ちは、まさにこの気持ちだ。
束縛からの脱却
もともと、わざわざこうやって束縛と語るには大げさなほど小さい束縛だけど、この縛りがグッと緩んで生きやすくなる出来事があった。
留年だ。
勉強に不真面目で授業に全然出席しなかった僕は、当然のごとく留年した。
学費と生活費を出してもらった親には心底申し訳ないと思っているが、僕にとって留年はサイコーの人生経験だった。
「留年生です」と自己紹介してしまえば、真面目に勉強をするやつだと思われない。後から裏切ることもない。最高。
「不真面目だったり少しでも変わった経歴を持つこと」は、「不真面目で変わっていても赦されるということ」だと思った。
奇人的自己紹介
で、その点において「母親がダイナマイトで心中した」は最強だ。
そんな自己紹介を言われたら、そいつがどれほど破天荒なことを言い出しても納得するだろう。
どれだけ急に変なこと言っても気にならないだろう。そりゃあ変なこと言っても、しても、母親がダイナマイトで心中した経験を持つならしょうがないなと。
奇人的な自己紹介をすれば、どんな人間性になろうが赦される。
奇人的な自己紹介を手に入れることは、自由を手に入れることだ。
結論
まあだからと言って母親がダイナマイト心中するとか無理だし、無理じゃなくても絶対いやだ。
じゃあどうすればいいのかっていうと具体策はあんま思い浮かばねー。だけど、自分のキャラとか流れとかをぶった切って、少し外れた要素を持とうと意識して日々生活することでそのうち報われるんじゃねぇの?
期待を裏切って急に話を終わらせたりすんのもたまには良いと思うぜ。
じゃあなバイバイ
代官山TSUTAYAに来て考えた、人を浴びる効用について
初めて代官山TSUTAYAに来てみた。
予想の倍ぐらいの広さに、予想の5倍ぐらいの人がいる!ワクワクがすごい。
占い師からのすすめ
どうして来たのかというと、先日渋谷でみてもらった占い師におすすめされたからだ。
渋谷で遊んだ帰り道、気分が良かったのでちょうど通りがかった道に出ていた占い師に声をかけて占ってもらった。
占いは楽しい。
普段なら自分の話ばかりするやつはウザがられるけど、占いではひたすら自分のことを話していい。占い師もひたすらに僕の話をしてくれる。
しかも結構褒めてくれたり。さらには僕よりも僕のことを知っているように色々教えてくれる。楽しい。
もしかしたら僕は占いをキャバクラ的に使っているのかもしれない。
閑話休題。
渋谷の占い師は陽気な人で楽しかった。
占い師が言うには「出会いが欲しい人にはみんな代官山のTSUTAYAをおすすめしてるの。毎週行って、本を読んで、コーヒー飲んで、いろんな人を見る。これ勧めて女の子40人ぐらい(?)恋人できちゃったからね」とのことだった。(正確な表現は定かじゃないけどこんな感じ)
女の子はナンパされるからで逆に男はナンパでもしなきゃそんなことないでしょ、
とか思ったものの、そんなふうに言われる代官山TSUTAYAってどんな場所だろう?と思い、本日来てみた次第だ。
代官山TSUTAYAと代官山の印象
予想の倍ぐらい広く、予想の5倍ぐらいの人がいて、ワクワクする。
そしてちょっと独特の雰囲気がある。みんな赤の他人だし、誰かと関わりにここに来たわけではないんだけど、活気があってなんとなく距離が近い。
なるほど確かに占い師が言ったようなロマンチックが生まれそうだ。
馴れ初めを語るのにも「代官山のTSUTAYAで出会って..」ってちょっとかっこいい。
代官山に来るのはたぶん2回目。
知らない街を散歩するのはけっこう好きだ。すれ違う人を眺めてなんとなくその属性を考える。
代官山の印象は、一定数やたら若い女の子(高校生ぐらい?)がいるのと、まっすぐにおしゃれな大人が多いって感じ。
まっすぐにおしゃれな大人たちはそのまっすぐさゆえちょっとオラついている。
まっすぐすぎるのはちょっと窮屈だから、個人的には下北沢ぐらいのひねくれてる雰囲気の方が好きだ。
下北沢は好きだけど、下北沢が好きとは言いたくないところが下北沢の難しいところ。
以前、下高井戸という街に住んでいたんだけど、ここは良かった。
世田谷と杉並のちょうど境界線上にあって、そのあたりの雑多な趣を感じさせつつ、下北沢ほどあからさまではないから「下高井戸、好きです」と言いやすい。
職場への近さを重視して池袋へ引っ越してしまったけど、またこんな雰囲気の街に住みたいなと思う。
人を浴びる効用
閑話休題(2)。
誰かと話すわけじゃなくても、人混みに揉まれる気持ち良さってあると思う。
東京に出た頃は人の多さがひたすらに嫌だった。
今だって満員電車は嫌いだし、イベントや人気の飲食店で待たされて並んだり、旅行や他の確固たる用事があるときの人混みは嫌いだ。
でもそうじゃなくて、ただなんとなく人が多いことには不思議な心地良さを感じるようになってきた。
僕はこの心地よさを 人を浴びる効用 と呼んでいる。
(効用って言葉の使い方が間違っている気もする)
ブログを書いたり趣味でプログラミングをしたり、休日も何かとPCを触る。
そんなときは家で作業するのではなく、外に出ることが多い。
家では集中できないとかって理由もあるだろうけど、なんとなく人を浴びるために外に出ている気がする。
人混みがキライ!と言う人には理解されないかもしれない。
きっとそんなあなたは普段から人といっぱい関わっている人気者だろう。
そうでない人、日常にちょっとした寂しさを感じる人には一定数共感してもらえるんじゃないかな。
僕と同じように、満員電車や行列は嫌いだけど、ガヤガヤした人並みに心地よさを感じる人もいると信じている。
ちょっとだけ寂しい...とは言え知らない人と関わりに行くのはしんどいし、知っている人にすら連絡するのも億劫で、友達と話すことすら面倒に思う日もあるはずで。
そんなとき、出会わずに、話さずに、なんとなく人を浴びるってのはなかなかちょうどよく気持ちいい行為だと思う。
(この趣味、実はけっこう気持ち悪い?)
人浴びスポット
休日の作業にはスタバを使うことが多い。
スタバでMacドヤ顔と揶揄されてしまうけど、やっぱりスタバがちょうどいい。
静かに集中して作業しようとだけ考えれば、ルノアールとか、穴場の古めかしい喫茶店とかもあるんだけど、人を浴びるにはスタバがいい。
ちょっと混んでて、人の出入りがあって、若者が多くて活気に満ちている。
スタバは、快適に作業しつつ人浴びができる ちょうどいい人浴びスポット だ。
で、うまく繋げられないけど、何が言いたいかというと、
代官山TSUTAYAは絶好の人浴びスポットだ! ってこと。
普通のスタバ以上に人の出入りが多いし、混雑しているものの席数が多いから一人ならなんやかんや座れる。
若干のオラつきはあるかもしれないけど、おしゃれだったり綺麗な人が多いから眺めていても楽しい。
代官山TSUTAYA。
占い師の意図とは少し違うかもしれないけど、素敵な人浴びスポットを見つけることができた。
人浴びスポット みたいな基準で評価されている場所を知らないから、どうやって探せばいいのかわからない。でも、それはそれできっと楽しい。
こうやってふらふらと出歩くことで、もっともっと人浴びを追求していきたいな。
大人になるか子どもでいるか、自分が変わるか世界を探すか
最近、自分の子どもっぽさが嫌になることが増えた。
学生の頃はまだ良かったんだけどさ、もう27歳だよ。そろそろ大人になりたい。やれやれ嫌になっちまうぜ。
そんなことをボヤくと、当然ながらこう言われる。
「大人になるってどういうこと?」
当然の疑問なのに、その時僕は答えられなかった。
そんな中、この前Netflixでドラマ『最高の離婚』を観て気付きがあった。 第3話にこんな会話があった。
「諒君ってね、楽なのよ。めんどくさくないの。」
「あ〜大事。男の価値って、めんどくさいかめんどくさくないかで決まると思うんです!」
「男はそこがわかってないの。こだわりがどうとか」
「男のこだわり…最悪!」
※諒君: 綾野剛演じるモテ男
めんどくさい…それだ!
この話においては「男の価値」とされているが、これこそ僕の考える「大人になる」だ。
大人になることは、めんどくさくなくなることだ。
大人のおっさんってさ、めんどくさくないよね。自分の人生やポジションをわかっていて、適切な距離を取り、納得していてそれ以上を求めない。実にめんどくさくない!
子どもっぽさが嫌になるときは、まるっきり逆のことをやってしまっている。自分の人生もポジションもどこに当てはまってどうなるのか全然わからない。人との距離の取り方も全然わからん。わかんないから納得もできないしちょっと良いポジションに期待しちゃったり素敵な人に憧れちゃったりしちゃう。これがね、(他人からしたらきっと)実にめんどくさい!
大人に憧れて大人のフリをしようとして、これが余計にめんどくさくさせてしまう。
例えば「自分ブサイクだからさあ、誰にも認められず、さみしくて…」と呟けば明らかにめんどくさい人間だ。これがめんどくさいのはわかる。だからそんな明らかなめんどくささを避けて、なんやかんやの辻褄を合わせようと「いや、なかなか他人に心を許せなくてね…」みたいなことを言ってしまう。めんどくさいこと避けようと、よりめんどくさいことを言ってしまっている気がして落ち込む。
大人のフリをしようとしても、大人の余裕がなければめんどくさいままだ。
そんなことを考える最中、昨日今日で『夏の前日』という漫画を読んだ。全5巻だからサクッと読める。
- 作者: 吉田基已
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/12/07
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これ、最高だった。
端的に言えば、絵画に没頭する気難しい美大生の男が、美人で粋なお姉さんにかわいがられながら見守られながら恋をする話だ。
この主人公の男青木が、ほんとぉ〜にめんどくさいやつ。
でもさ、めんどくさいままに愛されていたんだよね。めんどくささ含めてまるっと愛に包まれていた。
夢。
この主人公青木には絵画があるし、そもそもフィクションだ。
でもこうしてめんどくさい男がめんどくさいままに愛されてる…これが、これこそが最高じゃないか。
めんどくさくても赦されたい。
めんとくさいまま愛されたい。
そりゃあ愛されるために自分が変わるよりは、変わらないままの自分を愛されたいよね。
それじゃ愛されないから大人になりたかったんだけど、夏の前日を読んでしまったら羨ましすぎて大人になる気を削がれてしまった。
あーあ、まだしばらくは大人になれないかも。
優しさには力が必要だ、という話
『彼女がその名を知らない鳥たち』という映画を観てきた。
映画の内容をものすごく無理矢理な断面で切り取るなら、優しいが不潔な男が蒼井優にウザがられ、不誠実なイケメンが蒼井優を楽しませる物語だ。(繰り返すけど、ものすごく無理矢理な断面だ)
優しさには力が必要だ、と思った。
力のない男がいくら誠実に好意を示しても気持ち悪ければ迷惑だ。 一方で、不誠実なイケメンはその場しのぎの嘘で軽く弄ぶだけで女の子を喜ばせる。
いくら尽くしても力のない男の愛情はめんどくさいし、いくら不誠実でもイケメンには力があるからだ。
優しい男が損をして、チャラい男が得をするよね〜なんてことを言いたいのではない。不誠実だろうがチャラいイケメンの方が女の子を幸せにしている=優しいのではないか?という話だ。
優しくなりたいのであれば、尽くすのではなく、力を付けなくてはならない。
お金で考えるともっとわかりやすい。
僕はそれほどお金持ちになりたい欲求はなくて、そこそこのお金でまあまあ楽しく過ごせればいいかなと思っていたんだけど、最近ではこれってすごく独り善がりな考えだと気付いた。
お金があれば、親に最新の家電をプレゼントして親孝行できるし、子供がいれば教育費をがっつりかけてやりたい事を応援できるかもしれない。好きな女の子がいれば、きれいなレストランに連れて行ってとびっきりおいしいものを食べさせられるかもしれない。
お金がいらないとは、それら他人を喜ばせることを放棄することだ。
募金なんかもっと象徴的だ。
毎日街頭に立って悲劇を叫ぶよりも、お金を稼ぐ力があって、財力があればぽんと大金を出せるかもしれない。
財力が誰かを喜ばせる力、すなわち優しさになる。
とびっきり誰かを喜ばせたい…!
優しくなりたい…!
力が欲しい…!
というわけでジムに来たけど休館日だった。
喜ばせる誰かは特にいないけどいつかのその日に備えて今日は家でゆっくり休息力を高めることにした。
ついでに言うと、やっぱり誰を喜ばせるわけでもなくともただお金持ちになりたい。