このブログは人間によって書かれています

機械学習という言葉をご存知だろうか。

文字通り「機械が勝手に学習する技術」らしく、「人工知能」と相関が強い。最近「ディープラーニング」という概念が発明され、その進化スピードは格段に速まった。

有名なのはGoogle音声認識サービスだ。一昔前の音声認識というと、なかなか思ったように聞き取ってもらえなかったが、あるタイミングで突如改善されたような気がしないだろうか。その"あるタイミング"というのが、ディープラーニングの発明らしい。

聞きなれない単語が続出し困惑した人もいるかもしれない。要は「機械がめっちゃ賢くなる、ヤベえ」ってことだ。

今日は、そんな機械学習への 哲学または妄想としての興味 を書き散らかす。
(技術の話ではありません、ということ)

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ブログの創造主であり破壊神

小説家か歌手になりたいと思っていた。

自身の考えを語るにあたり、“自身の考えである”という前提が窮屈すぎるからだ。

掟上今日子の備忘録』の最新話を観た。 観たと言うからにはドラマ版である。 最新話の内容について、ネタバレを含め紹介する。

自意識の強い少女がいた。

少女は自身の好みを晒したくないがために、本を買うときもわざわざ興味のない本まで一緒に買うという手の込みようだった。いわゆる、エロ本を買うとき雑誌のあいだに挟む術だ。

しかし、本作の語り部である隠館厄介に自身の本当の好みを見透かされてしまう。実際は見透かされてなどいないが、少女からはそう見えた。 少女は、好みを悟られた恥ずかしさと、周りの人々に言いふらされるのではないかという恐れから、厄介の殺害を計画する。

自殺に見せかけるその殺害計画においても、自身の自殺(殺害)理由を知られないため、また、勝手な推測すらもされたくないがために、「嘘」の遺書を用意する。

 

小説家や歌手は、物語の登場人物や歌を通して延々と自分の考えを語りながら、「それが自分の考えである」という前提に縛られない。素晴らしい。 そして、小説や歌が最も素晴らしく美しいものだとするのならば、ブログはどうだ。 “それが自分の考えである”という前提に縛られるどころか、“そんな自分の考えを語りたい”という前提まで周知することになってしまう。なんという醜さだ!

ブログは、ブログこそが最も愚かで醜い。 自意識によってブログを始め、自意識によってブログが許せなくなる。自意識もブログも矛盾している。

救われるには、掟上今日子の備忘録にあるように「嘘」をつくしかない。 このブログに嘘を2つ混ぜた。スープに混ぜた1滴の隠し味が、この自意識の救世主とならんことを。

 

掟上今日子の備忘録

掟上今日子の備忘録

 

 

バケツプリンを食べたことにどれほどの意味があるのだろうか

森絵都『永遠の出口』を読んで。 

永遠の出口 (集英社文庫(日本))

永遠の出口 (集英社文庫(日本))

 
 
 

「今から就職したときのことなんて心配してたら老後にゃ死後のことばかり心配するようになっちまうよ」

当時僕の周りでSNSといえばそれはTwitterFacebookではなく、mixiのことだった。大学生になり、周囲の行動は留学やイベントなど社会的な雰囲気を帯び、「将来どうするか」なんて話題も増えてきた。そして、その 「将来どうするか」は高校までのそれとは違っていた。

冒頭の言葉は、そんな大学2年生の頃の僕の"マイミク"の言葉だ。

僕は他の社会的な学生のように将来に向き合う気になれず、その言葉に甚く感動した覚えがある。

 

感動したついでに留年した僕は家庭教師のアルバイトをしていた。
生徒はいつも「勉強したくない」「学校の奴らがウザい」と愚痴を吐いていた。「勉強よりプログラミングしよう。ウザい奴らは無視すればいいしもうじき会わなくなるんだから気にすんな」……と思ったが言わなかった。生徒にとっては今が永遠だ。卒業後の生活も将来の成功も関係ない。
「学校は弱肉強食だ。負けたくないならぶん殴ってでも反抗しなければならない。それができないなら潔く負けを認めろ」と教えた。

僕が中学に入学した頃、歯の矯正をしようと親に言われた。たった1年矯正すれば、その先一生の歯並びが良くなる。しかし、当時はその1年間矯正器具をつけている事がどうしても嫌で断固として矯正を受け入れなかった。おかげで僕は今でも前歯が少し空きっ歯だ。
もし自分の子供が同じ事を言ったらバカだと思うだろう。
未来を悩むのはくだらないし、過去の悩みはちっぽけになる。今が永遠だーー

しかし、今の悩みは壮大だと思っても、数年経てばその悩みは陳腐化する。必死に悩んだことが陳腐になるのは悔しいけれど、その悔しささえすぐに陳腐になっていく。その悔しさも陳腐化するなんて寂しいけれど、その寂しさも同様だ。

すべての悩みや感情は風化し、人は皆死に、人類は滅び、地球さえも消滅する。
思考は洗練され、雑念はかき消され、ほんとうに大切な気持ちだけが胸に残る。

モテたい。

赦してほしい

「赦す」と「許す」はどう違うのだろう。

なんとなく、「許す」のほうは悪いことをして、謝って、責めるのをやめてもらう、というイメージ。 「赦す」のほうは、それら一連の動作がぼやけている。悪いことと自覚しないままの身勝手、わがまま、甘えを、謝ることもなく(または気付くこともないまま)受け入れてもらう。

「赦す」には言葉にされないコミュニケーションがある。甘えられる信頼と受け入れる優しさがある…

なんて書く時間があればGoogle検索で意味の違いを調べることもできたけど、それをしない自分でも赦されたい。 なんでも卒なくこなせるカッコいい大人より、できなくても赦される大人に憧れる。

芸能人が中身のない数行のブログ書いて200コメント付いたりする、ああいうの。 将棋の名人が見た目に無頓着でどこか挙動不審だったりする、ああいうの。 バンドマンが夢を語ればクズでも稼ぎがなくてもヒモになれる、ああいうの。

小説家の朝井リョウが「ファッションとかわからないんで、とりあえずいつも人に勧められたフレッドペリーの服着てます」とか、そういうの。 銀杏BOYZ峯田和伸がインタビューで「この数年の世間の変化とかどう思いますか」と聞かれて答えた「世間の変化とか全然わかんない。自分の周りだけ。○年前彼女と別れた、ぐらいかな」とか、そういうの。

うん。

言いたいことは以上なんだけど、 こんなブログでも赦してくれるかな。

前夜

映画の公開にあわせhuluでドラマ版が配信された『みんな!エスパーだよ!』を観た。面白い。エンディングの演出が好きだ。 その流れで、石崎ひゅーいの『夜間飛行』を聴いている。当該曲収録アルバムのタイトルは『独立前夜』だそうだ。

いいね。”前夜”っていい。 前夜って好きだ。

僕は中学高校とバスケ部だった。そんなに上手くなかったから大会は半分他人事だったけど、それでも「大会前夜」は好きだった。 大会前日は練習も軽めだった。翌日に備えてみんな早くあがり、しーんと静まる体育館。不思議な心地よさがあって、なかなか帰る気になれなかった。

前夜ってすてきだ。

例えば、卒業前夜とか、引っ越し前夜とか、結婚前夜、退職前夜…. 考えてみると、前夜ってのは何かと別れるときなんだね。夢中で走ってきた人にとって(またぼーっと歩いてきた人にとっても)、別れと向き合う最初のときであり、ただ漠然と感傷に浸れる最後のときなんだろう。 そんなことを考えた今夜は一体何の前夜なんだろうな。

ネタ切れ

いや、まいったね。

ネタ切れだ。 このブログを目にした人は「あれ?以前の記事はどこにあるんだろう?」と思うかもしれない。

以前の記事なんてない。正真正銘、これが最初の記事だ。 最初の記事だけど、どうにもこうにも書くことが思い浮かばない。ネタ切れだ。

「最初の記事なのにどうしてネタ切れなの?」と思うかもしれない。 何も書くことが思いつかないほど平々凡々な感性のもと、尋常一様な日々を過ごしているからだよ。

「書くことがないのにどうしてブログを始めたの?」と思うかもしれない。 そりゃあ、この自意識の暴走を抑え切れなくなったからだ。

「じゃあ、一体なにをしている人なの?」と思うかもしれない。 名乗るほどの者じゃないさ。そう言う君はどうなんだ?

「私?私はただの主婦よ」と思うかもしれない。 そうなんだ。毎日、家事お疲れさま。

「ありがとう。もう慣れたわ」と思うかもしれない。 そっか。このブログが少しでも君の癒しになるといいな。

「じゃあ、早くネタを作ってね」と思うかもしれない。 おっと、痛いところを突いてくるね。そろそろ寝たほうがいいんじゃないのか。

「私の話はもういいから。」と思うかもしれない。 そうかい。また今度聞かせておくれ。

「これからどうするつもりなの?」と思うかもしれない。 さあね。風の吹くまま気の向くまま、お尻の周りはクソだらけさ。

「ふうん、なんだか私たち、上手くやれそうね」と思うかもしれない。 ありがとう、僕もそう思うよ。これからよろしくね。