サンフランシスコに来ました

サンフランシスコに来ました。

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ソフトウェアエンジニアの聖地であるここ サンフランシスコベイエリア で一ヶ月間だけ働けることになりました。(今はシリコンバレーではなくベイエリアと言うそうです)
説明は省きますが、あんまり明確な目的はなく、なんとなくここにたどり着きました。

海外渡航自体が初めてであり、知らないことがたくさんあったのでブログというより日記的にポツポツとここに書いていきます。

時差の話

時差があることは当然理解していたし遠くの人が違う時刻を生きることにも納得感があった。
しかし、自分自身の時差が変化していくのは奇妙な感覚だった。

飛行機にいる間は日本時間でも太平洋時間でもない時間を生きていて今何時なのかわからない。時計が手元にないからわからないのではなく、見るべき時計が存在しない。
1日が24時間で今が22時頃であればそろそろ寝る準備を始めて7時間ぐらい眠ればいいけど、1日が24時間だかわからないし今が何時かもわからないのであれば、一体いつからどのくらい眠ればいいのかわからない。
今まで生きてきた地(ルール)に足がつかず、時刻の無重力空間をふわふわ浮いているようだった。

おれは 3/14(火) の 17:00 に出発したと思ったら 3/14(火) の 10:00 に到着していた。
な…何を言っているのか わからねーと思うが おれも 何をされたのかわからなかった…

生活の話

  • 空気がカラッとしていてンギモッヂイイ

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到着した日は他の日と比べてめちゃくちゃ暑い日で短パンでもいいくらいだったけど、暑くても湿ってないから不思議と快適だった。
この日に限らず乾燥しているから全然汗をかかないし、ただ外を歩くのも気持ちいい。
むしろアメリカ人が日本に来たらジメジメしていて気持ちわるぅと思うだろうな。

  • 普通に過ごしていて話しかけられる

日本とアメリカの文化の違いは挙げればキリがないけど、知らない人が普通に話しかけてくるのはすごい。
電車乗ってて隣の人に「今何時?」と聞かれたり、ピザ食べてたら「ピザうまいかい?」と言われた。
こんなフレンドリーだったら街歩いて生活するだけで友達できるだろうし、人間関係の幅が全然違って楽しいだろうな。
(僕は英語がまるで話せないのでそっとしといて欲しかったりもするけど)

  • 買い物の話

いきなり話しかけてくる人にちゃんとした受け答えをする義理はないけど、買い物だけは唯一ある程度英語で会話をしなくてはならない。
スーパーだったら「袋いる?」とかレストランだったら「ここで食べてく?」とか限られたものしかないけど、僕にとってはこれが毎回勝負時である。
最近、けっこうな頻度で「注文(商品)は以上?」と聞かれることがわかった。
別に英語ができなくても今のところ怒られたりそれほど困ったりするわけじゃないけど、オフモードでゆっくりしたい時にどこから何が飛んでくるかわからないのはなかなか精神を磨耗する。
あと、チップは意外と注文時にまとめられてたりするからあまり気にする必要はなさそう。

  • 食べ物の話

食べ物はマジで全然ダメ。

真面目な話

本来ならば憧れ、勉強し、画策し、なんとか来るのがここ サンフランシスコベイエリア だけど、
冒頭に書いた通り僕は「なぜここに来たのか」という明確な目的を持っていない。
憧れがあったわけでもなく、勉強もせず(英語も話せず)、画策もしていない。
これはめちゃくちゃに運が良いと思う。

ここに来てすぐ日本人の集まりみたいなのに行ったけど、みんなやっぱりベイエリアを信奉していた。 そりゃ日本からわざわざ来るような人の集まりだから当然だけど。
なんかこのモヤモヤと実態の見えない憧れみたいなものが、来てみたらもうちょっとわかるかな?と思っていたけど、今のところはまだわからない。

個人的な観点から日本とベイエリアそれぞれの良いところを挙げてみる

  • 日本
    • 日本語が話せれば自由自在
    • 飯がうまい
    • 邦画、漫画、アニメなどが見やすい
    • 治安が良い
    • 街が綺麗で臭くない
  • ベイエリア
    • 空気が乾燥していて気持ち良い
    • 建物の中も外も広々としている
    • 見知らぬ人がいきなり話しかけてくる
    • ITの聖地としてスタートアップ支援が充実している
    • ITの聖地としてコミュニティでいろんな人に会いやすい
    • 給料が高い(そのぶん物価も高いけど)
    • かっこいい

日本の良さはどれもかなり重要。
ベイエリアの良さは色々あるけど、正直どれもなくて良い。(そりゃあ今までなしで生きて来たからね)

この話は 日本に住むべきか、ベイエリアに住むべきか という問いへの答えに集約される。

ここまで考えるまでもなく、僕の中で答えはもう「日本」しかないけど、それでもベイエリアを選ぶとしたらやっぱり かっこいい から選ぶかな。
アメリカで働くってかっこいいし「サンフランシスコベイエリアのスタートアップで働くエンジニア」とプロフィールに書きたい。
かっこよさしか理由はないけど、かっこよさはめっちゃ大きな要素だ。

かっこよさとだけ言うと語弊がある。
ベイエリアで働くことには ロマン がある。誰に共有するわけでもない自分の矜持として。
しかしなんというか、僕はそれにロマンを感じる文脈を通って来なかった。世代なのか?立場なのか?わからないけど、ある文脈を通ってきたら無条件に強烈に憧れるであろう文脈を自分は通って来なかったと感じる。ベイエリアに憧れるための教育を受けて来なかったと言うべきか。
僕にベイエリアへの憧れやロマンがあるとしてもFacebookのプロフィールに書ければ8割方満足してしまうようなレベルだ。

「日本に住むべきか、ベイエリアに住むべきか」に集約されるとは言ったけど、これって結局「自分は何者になりたいのか」だ。

かっこよさやロマンがその程度だとすると、英語ができないからめっちゃ不便するし、一流のITエンジニアを目指しているわけでもない。
極力働かずに面白そうなものに携わりながらぼけーっと生きていきたいと考えているだけの人間にとって、ベイエリアはあまり意味ないのかな?
まだわからない。


サンフランシスコ1週間目はこんな感じ。
1ヶ月いたら変わるかな?

1ヶ月の観光というより、1ヶ月の暮らしを味わっていきたい。

映画は何を観るかより誰と観るか

「映画は何を観るかより誰と観るかだよ」

中学の頃、僕の好きだった女の子が言っていた。

ちょうど自意識が芽生え始めた頃。 スクールカースト真っ只中、彼女にとっての映画は「イケてる自分を演出する手段」だった。 映画を観たいがために映画を観るのではなく、"映画を観る"というイベントをクラスのイケてるメンバーと一緒に行うことで自身のイケてるポジションを固めることが目的なのだ。

なにを観たんだっけかな、部活の男友達とその当時流行っていたなんてことはない映画を観にいった。 「そのメンバーで映画行くとか面白いね」など散々笑われた挙句吐かれた言葉が冒頭のそれだ。 バカにされて悔しかったのもあるけど、"誰と行くか"の方が重要だなんて、なんとなく不純でかっこ悪いと思った。 認めたくなかったし、認められなかった。

しかし、当時の僕らにとってそれは絶対的真実だった。

 

「映画は誰と観るかより何を観るかだよ」

大学の頃、僕の好きだった女の子がそう言っていた...訳ではないけれど。

その子は「わたし、映画観たあと感想語り合ったりするのイヤなんですよ」と言っていた。 語り合うのを嫌がるぐらいだから、誰と観るかより"何を観るか"の方を重視していると言っていいだろう。 (「感想の語り合いじゃなくてお前がイヤなんだよ」と思っていた可能性は考慮しないものとする)

いや、一緒に映画観に来てるんだからさ...と思ったけれど、今なら彼女の言うこともわかる気がする。

きっと彼女は映画を観て生じた感情全てを大切にしてあげたかったのだと思う。 誰の解釈も気にせず好きな感想を抱いたまま眠りたかったのだろう。 (繊細で気難しい彼女はこうわかったようなことを言われるのを嫌うだろうけど)

大学生からは僕も一人で映画を観に行くことが増えた。 映画は面白い。その2時間を精一杯受け取って、たっぷり感じて持ち帰る。

誰と観るかより...というよりもはや、誰かと観ることより「何を観るか」が圧倒的に重要だった。

 

今日も一人で映画を観て来た。

渋谷ユーロスペースで『この世界の片隅に』を観た。 ここでは感想を書かないけど、素敵な映画だったからぜひ観てほしい。

エンディングが流れ出したとき、前の席のカップルの彼女の方が彼氏の肩に、ことんと頭を預けた。 ああ、いいなあ。 残念ながらこの感情を説明できるほど文章力もなければ自分を俯瞰できてもいない。 ただ、物語が僕の生活に占める割合が増えていくほど、物語は僕の生活と疎結合ではいられなくなっているように感じる。 映画の中に閉じられない感情もあるのだと思った。

スクールカーストでのし上がらなくていいし、感想を聞かなくてもいい。 他人に見せびらかすでも誰かと共有するでもなく、君は何を思ったんだろうなあ、と思いを馳せてみたい。 少し前まで僕を好きだった女の子がそう思わせてくれた。


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乳首アプリをリリースしたよ

もう半年ぐらい前なんだけど、乳首アプリをリリースした。 乳首をつついて脱色する iPhone アプリだ。

 

Don’t Touch Me ! カテゴリ: ゲーム, エンターテインメント, アクション

 

Apple は下ネタに厳しく、1度目は当然のごとく審査に落とされた。

理由は「乳首をつつくという主旨が下品だ」とのこと。 コンセプト全否定!下ネタに厳しいってこと知ってはいたのに何故かすっかり忘れてた。 ※下品で落とされた例としてはこのアプリがすごい↓ http://ima.goo.ne.jp/column/article/3096.html

しょうがないから乳首に見えないように修正。 まず、デフォルトの背景を肌色から青に変更。つついたときに出る「乳首」って声もセリフをユーザーが自由に設定できるようにした。 そうして、この絵は乳首なんかじゃない、乳首に見えるなら下品なのはお前だ!審査員!と言わんばかりの内容にしたらなんとかリリースできたよ。 もはや何がしたいアプリかわからないけどね。

遊ぶときは背景を肌色に設定してね。 白乳首にできたら鳥貴族ぐらいおごるよ。

このブログは人間によって書かれています

機械学習という言葉をご存知だろうか。

文字通り「機械が勝手に学習する技術」らしく、「人工知能」と相関が強い。最近「ディープラーニング」という概念が発明され、その進化スピードは格段に速まった。

有名なのはGoogle音声認識サービスだ。一昔前の音声認識というと、なかなか思ったように聞き取ってもらえなかったが、あるタイミングで突如改善されたような気がしないだろうか。その"あるタイミング"というのが、ディープラーニングの発明らしい。

聞きなれない単語が続出し困惑した人もいるかもしれない。要は「機械がめっちゃ賢くなる、ヤベえ」ってことだ。

今日は、そんな機械学習への 哲学または妄想としての興味 を書き散らかす。
(技術の話ではありません、ということ)

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ブログの創造主であり破壊神

小説家か歌手になりたいと思っていた。

自身の考えを語るにあたり、“自身の考えである”という前提が窮屈すぎるからだ。

掟上今日子の備忘録』の最新話を観た。 観たと言うからにはドラマ版である。 最新話の内容について、ネタバレを含め紹介する。

自意識の強い少女がいた。

少女は自身の好みを晒したくないがために、本を買うときもわざわざ興味のない本まで一緒に買うという手の込みようだった。いわゆる、エロ本を買うとき雑誌のあいだに挟む術だ。

しかし、本作の語り部である隠館厄介に自身の本当の好みを見透かされてしまう。実際は見透かされてなどいないが、少女からはそう見えた。 少女は、好みを悟られた恥ずかしさと、周りの人々に言いふらされるのではないかという恐れから、厄介の殺害を計画する。

自殺に見せかけるその殺害計画においても、自身の自殺(殺害)理由を知られないため、また、勝手な推測すらもされたくないがために、「嘘」の遺書を用意する。

 

小説家や歌手は、物語の登場人物や歌を通して延々と自分の考えを語りながら、「それが自分の考えである」という前提に縛られない。素晴らしい。 そして、小説や歌が最も素晴らしく美しいものだとするのならば、ブログはどうだ。 “それが自分の考えである”という前提に縛られるどころか、“そんな自分の考えを語りたい”という前提まで周知することになってしまう。なんという醜さだ!

ブログは、ブログこそが最も愚かで醜い。 自意識によってブログを始め、自意識によってブログが許せなくなる。自意識もブログも矛盾している。

救われるには、掟上今日子の備忘録にあるように「嘘」をつくしかない。 このブログに嘘を2つ混ぜた。スープに混ぜた1滴の隠し味が、この自意識の救世主とならんことを。

 

掟上今日子の備忘録

掟上今日子の備忘録

 

 

バケツプリンを食べたことにどれほどの意味があるのだろうか

森絵都『永遠の出口』を読んで。 

永遠の出口 (集英社文庫(日本))

永遠の出口 (集英社文庫(日本))

 
 
 

「今から就職したときのことなんて心配してたら老後にゃ死後のことばかり心配するようになっちまうよ」

当時僕の周りでSNSといえばそれはTwitterFacebookではなく、mixiのことだった。大学生になり、周囲の行動は留学やイベントなど社会的な雰囲気を帯び、「将来どうするか」なんて話題も増えてきた。そして、その 「将来どうするか」は高校までのそれとは違っていた。

冒頭の言葉は、そんな大学2年生の頃の僕の"マイミク"の言葉だ。

僕は他の社会的な学生のように将来に向き合う気になれず、その言葉に甚く感動した覚えがある。

 

感動したついでに留年した僕は家庭教師のアルバイトをしていた。
生徒はいつも「勉強したくない」「学校の奴らがウザい」と愚痴を吐いていた。「勉強よりプログラミングしよう。ウザい奴らは無視すればいいしもうじき会わなくなるんだから気にすんな」……と思ったが言わなかった。生徒にとっては今が永遠だ。卒業後の生活も将来の成功も関係ない。
「学校は弱肉強食だ。負けたくないならぶん殴ってでも反抗しなければならない。それができないなら潔く負けを認めろ」と教えた。

僕が中学に入学した頃、歯の矯正をしようと親に言われた。たった1年矯正すれば、その先一生の歯並びが良くなる。しかし、当時はその1年間矯正器具をつけている事がどうしても嫌で断固として矯正を受け入れなかった。おかげで僕は今でも前歯が少し空きっ歯だ。
もし自分の子供が同じ事を言ったらバカだと思うだろう。
未来を悩むのはくだらないし、過去の悩みはちっぽけになる。今が永遠だーー

しかし、今の悩みは壮大だと思っても、数年経てばその悩みは陳腐化する。必死に悩んだことが陳腐になるのは悔しいけれど、その悔しささえすぐに陳腐になっていく。その悔しさも陳腐化するなんて寂しいけれど、その寂しさも同様だ。

すべての悩みや感情は風化し、人は皆死に、人類は滅び、地球さえも消滅する。
思考は洗練され、雑念はかき消され、ほんとうに大切な気持ちだけが胸に残る。

モテたい。

赦してほしい

「赦す」と「許す」はどう違うのだろう。

なんとなく、「許す」のほうは悪いことをして、謝って、責めるのをやめてもらう、というイメージ。 「赦す」のほうは、それら一連の動作がぼやけている。悪いことと自覚しないままの身勝手、わがまま、甘えを、謝ることもなく(または気付くこともないまま)受け入れてもらう。

「赦す」には言葉にされないコミュニケーションがある。甘えられる信頼と受け入れる優しさがある…

なんて書く時間があればGoogle検索で意味の違いを調べることもできたけど、それをしない自分でも赦されたい。 なんでも卒なくこなせるカッコいい大人より、できなくても赦される大人に憧れる。

芸能人が中身のない数行のブログ書いて200コメント付いたりする、ああいうの。 将棋の名人が見た目に無頓着でどこか挙動不審だったりする、ああいうの。 バンドマンが夢を語ればクズでも稼ぎがなくてもヒモになれる、ああいうの。

小説家の朝井リョウが「ファッションとかわからないんで、とりあえずいつも人に勧められたフレッドペリーの服着てます」とか、そういうの。 銀杏BOYZ峯田和伸がインタビューで「この数年の世間の変化とかどう思いますか」と聞かれて答えた「世間の変化とか全然わかんない。自分の周りだけ。○年前彼女と別れた、ぐらいかな」とか、そういうの。

うん。

言いたいことは以上なんだけど、 こんなブログでも赦してくれるかな。